it stuffs and even the scream which does not become voice of the everyday life
which passes away it would like to keep changing today into the sustenance which lives.−
桜宮高校の一件についての周り(友人関係除く)の反応を見ていて思うんだけど、
体罰=いじめと直結させて過剰な反応をする人が多い様な気がする。
特に年代が上の方の人になると、
体罰を容認したいがあまり、
いじめまで肯定してくるから驚きだ。
普段、いじめ問題について話している時には
「いじめはよくないね」とか言っているにもかかわらず、
今回のこの一件に関して話していると
平気で「いじめは仕方が無い」とか言い出すからたまらない。
いやいやいやいや。
ちょっと待てよ、と。
この一件の問題は、
体罰=いじめ→善か悪かという話ではなくて、
体罰が体罰として許容できる範囲であったかどうか、
それともいじめレベルになってたかってことだと思うんだけど。
詳しいところや、事件の真相についてはわからないので
ここでそれがどっちだったかについては触れないけれど、
何て言うか、極端な二元論に走りたがる人間が多いことには
正直かなりうんざりしてる。
原発問題も似た様な印象で、
反原発(即時停止)か、続原発(永続稼動)かの二元論。
自分は脱原発(いずれはより安全なエネルギーへ)なんだけど、
脱原発=反原発=悪と言う目で見られるので、何だかなぁと(´・ω・`)
いつから日本人ってこんなに対話が出来なくなったんだろうね?
自分と異なる考え、異なる見方、異なる意見の人間がいるということを、
いつからこんなにも許容できなくなってしまったんだろう。
自分と異なる人間が存在するということを許せず、
自分と異なる人間を攻撃し、排斥し、従わせる、
そこに果たして進歩(或いは進化)は存在するんだろうか。
自分の考え、見方、意見を他人に伝える為に言葉というものが生まれたとするのならば、
その先にはきっと「わかりあう」ことで「進歩(進化)する」ことが目的として存在するのだと思う。
だからこそ、攻撃や排斥等といった戦争にも通じる行為は、
言葉による相互理解が不可能となった果ての行為である筈なのに、
そのきっかけである対話すら拒み「わかりあう」ことを否定するという行為は
人類という存在そのものに対する冒涜ではないだろうか、とも思えてならないんだ。
閑話休題。
で、どうして体罰=いじめと考えてしまうんだろう?
体罰といじめは異なるものである筈なのに。
まあ、今回の件に関するメディアの論調を見ていても、
体罰=善か悪かというところに終始していて正直違和感を覚えるんだけど、
これ、要は過去の自分の行いに後ろめたいところがあるから、
当の顧問と自分自身を同一視しちゃってして過剰反応しているのかなぁ、と。
同一視してしまう理由としては、
自分自身、過去に体罰(或いはいじめ)をしてきたというのがあるのだろうけど、
個人的にはそれ自体は別にそこまで問題ではないと思ってる。
誰しも程度の差こそあれ、後輩や部下、或いは子供や弟妹に対して体罰じみたことをしたり、
或いは小中高大という学生時代の中で人をいじめたりしたことはあると思う。
だから同一視をしてしまうこと自体を問題にしたい訳じゃない。
問題なのは、
それに対して過剰に反応してしまい、
全否定をしようとしてしまうことだと思うんだ。
後ろめたいところがあるのなら、反省して改めればいい。
勿論、償いきれない(償えない)こともあるだろうと思う。
けど、自分の過ちを認めて改めることはできる筈。
過去の自分の行いを変えることはできないけれど、
未来を、明日以降の自分の振る舞いを変えることはできる筈。
それが「生きる」ってもんじゃね?
それが「人として生きる」ってことじゃね?
恐らく彼らは過去の自分の行いを直視することすら出来ないのだろう。
恐らくその行為によって自分自身を否定されそうだと感じるが故に。
けど、過ちを認めるってことは決して自分自身を否定することじゃない。
過去の自分を直視する必要性がある以上、
それは自己の肯定に至る最初で、かつ重大な一歩だと思うんだ。
人は変わることができる。
たとえ本質的なところが変わらないとしても、
過去の経験や知識は「人の行動」を変えることができる。
そうすることで、人は。
人類は、変わらなくてはならないのだから。
と、言うようなことを
OO総集編を見ていてふと思いました(´・ω・`)
最後のこの一言で、台無し感が満載な希ガスwwww
詰み逝く日々の声にならない叫びすら今日を生きる糧に変えていきたい。−
Return 2 -Felix culpa-