it stuffs and even the scream which does not become voice of the everyday life
which passes away it would like to keep changing today into the sustenance which lives.−
自分の価値観と現在の価値観にある程度の隔たりがある
ってことは十分に理解しているんだけど
それに対してどうこうと思うことなく
自分の価値観で、あるがままを受け入れていけばいい
それも十分わかっているんだけど
ついつい愚痴っぽく
「最近の若いもんは・・・」
って思ってしまう今日この頃だったり。
授業中の雑談で昨日のNHKの特番の話。
まーようは原爆投下についての話題だったんですが
教師の方の
「どうせ君ら知らないでしょ?」
みたいな論調が微妙に気にかかってみたり。
原爆投下時の大統領の名前がトルーマンだってことも
その彼も、会戦当初の大統領ルーズベルトが
直前に病死したために急遽大統領になったってことも
エノラ・ゲイって飛行機のことも
原爆投下の目標が変更になったことも
大体の流れは知ってるし
こと太平洋戦争のことに関して言えば
おそらくはあんたよりも知ってると思うんだけどなぁ、とかなんとか。
言わないけどさ・・・・
この場合は「原爆」という事象についての話題だけど
「事象」に対する「知識」をどれだけ持っているかは問題ではなくて
そこから何を汲み取るかというのが問題なんだと思うのです。
「原爆」を語るのであれば、
その単一の事象についてのみ語るのでなく、例えば
「太平洋戦争」しかり「当時の国際情勢」しかり
「帝国主義」しかり「民族と人種差別問題」しかり
それを取りまく様々の事象についても考慮した上で
そこから何かを汲み取ろうとすることが大事なのではないかと思うのですが。
「1945年8月、日本に原爆が投下されました」
その事実を「知識」のままにとどめるかどうかは、
あくまでもそれを受け取る個人個人にかかってるいるのではないでしょうか。
ま、月並みな意見ですけどね。
「なぜドイツには原爆は投下されなかったのか?」
「旧ソ連はなぜ終戦間際に条約を破り日本に宣戦布告してきたのか?」
「極東軍事裁判とはなにか?」
「A級戦犯は存在するのか?」
「近代アジアにおいて欧米諸国は何をしたか」
とかとか調べたり考えたりするといいかもしんないです。
詰み逝く日々の声にならない叫びすら今日を生きる糧に変えていきたい。−
Return 2 -Felix culpa-